歴史
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1887
明治20年
創業
当時日本の眼鏡業界は、鏡やランプなどとの兼業が多く、眼鏡は既製品を販売していた程度。
東京の眼鏡店は、室町の村田さん、銀座の松島さん、日本橋の金鳳堂の三店。
金鳳堂の店舗は日本橋、作業所が京橋にありました。 -
1899
明治32年
この頃より時計を扱いはじめたが、「此の時代時計店としては、他に大店沢山ありて、金鳳堂ごときは東京に於いて第三流なりし、眼鏡を以て世にたち東洋一の眼鏡王とならんとの希望を起こす」と一夜のうちに決心。翌日時計全部を売却して、純然たる眼鏡店に変化しました。
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1921
大正10年
京橋に金鳳堂眼鏡店を開店
時代が明治から大正に変わり、鉄道、電気の発達は目覚ましく、新たな文化として写真、洋服、靴などが欧米から続々と入ってくるなか、眼鏡づくりがこのままで良いわけがないとして、欧米の眼鏡事情を学ぶ構想を練りました。
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1923
大正12年
欧州渡航
創業者の長男重憲氏がイギリスとドイツの文化を学ぶ
関東大震災により店舗焼失
震災後の店舗再建には、最先端の眼鏡技術習得が不可欠とし米国留学を計画する。
こうして大正時代の15年間を海外に眼を向け、実態をリサーチすることと、新しい眼鏡技術の導入に費やす。 -
1927
昭和2年
渡米
創業者の次男重政氏がフィラデルフィアのオプトメトリストカレッジへの入学を果たす。
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1928
昭和3年
京橋2丁目に店舗を新築。京橋本店とする
欧州で見てきた構想をもとに数々の最新建築を採り入れた当時最先端の店舗を完成。
正面両側には大きなウインドーを設け、吹き抜けの曲がり階段と大きなシャンデリアの照明は、洋画のセットにありそうな雰囲気を感じさせた。
曲がり階段をあがった二階の待合室には大型ソファが置かれ、レモン粒の入った風月堂のお茶が出された。 -
1929
昭和4年
重政氏はフィラデルフィアのオプトメトリスト専門学校を卒業後帰国せず、実地販売の経験を積むべくニューヨーク8番街の眼鏡店へ勤め、視力測定と眼鏡加工技術に磨きをかけました。
重政氏の米国眼鏡学士の称号は当時の日本において珍しいことでした。
「重憲と重政の洋行は、大いに財界の注目を惹いた。殊に重政の米国眼鏡士の称号は無限無形の功を奏せり。嗚呼、果断なるけり。」という創業者の記述があります。新しい金鳳堂の名声は全国に響き、北海道や九州からの来店もあり、各地の名士、国会議員、俳優などの上顧客を主力客層とする名店と評されました。
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1933
昭和8年
当時の最先端を走り、名声を博した京橋本店が百貨店に目され、日本橋髙島屋と伊勢丹新宿に眼鏡売場を開設する。
百貨店眼鏡売場開設は金鳳堂が最初の企業となる。 -
1935
昭和10年
銀座に出店。支店の第一号店となる。
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1945
昭和20年
東京大空襲により銀座店焼失。
京橋本店は戦時特別措置により撤去となる。
戦後は、奇跡的に戦災をまぬがれた日本橋髙島屋と伊勢丹新宿の眼鏡売場から再建を図った。 -
1953
昭和28年
法人設立 金鳳堂眼鏡店から株式会社金鳳堂へ
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1959
昭和34年
横浜髙島屋店 出店
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1960
昭和35年
伊勢丹立川店 出店
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1965
昭和40年
「王様のアイデア」出店 ※現在はありません
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1966
昭和41年
ながの東急店 出店
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1970
昭和45年
大宮髙島屋店 出店
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1973
昭和48年
柏髙島屋 出店
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1975
昭和50年
玉川髙島屋 出店
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1976
昭和51年
ニューヨーク五番街 出店 ※現在はありません
まるひろ川越店 出店
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1981
昭和56年
伊勢丹浦和店 出店
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1983
昭和58年
港南台髙島屋 出店
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1984
昭和59年
新潟伊勢丹店 出店
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1988
昭和63年
遠鉄百貨店 出店
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1990
平成2年
マレーシア伊勢丹 出店
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1997
平成9年
ジェイアール京都伊勢丹 出店
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2007
平成19年
新宿髙島屋・立川髙島屋・高崎髙島屋 出店
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2010
平成22年
事業譲渡により、パリミキホールディングスグループ企業となる
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2014
平成26年
シンガポール伊勢丹 出店
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2015
平成27年
丸井今井札幌本店 出店
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2016
平成28年
京橋エドグラン1階に京橋本店が移転
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2020
令和2年
伊勢丹新宿店本館1階にアイウェアショップ、メンズ館1階にサングラスショップをオープン
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